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- 八甲田山から還ってきた男/高木勉/文春文庫/1990年(単行本1986年)
- 雪の八甲田で何が起ったのか/川口泰英/北方新社/2001年
1902年(明治35年)1月に起きた青森第五聯隊雪中行軍隊の八甲田山岳遭難は、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」と映画「八甲田山」(シナノ企画・東宝1977年)で広く知られていますが、史実をもとにした小説(フィクション)とそれを原作とした映画であるために事実と異なる部分があるとされています。折しも日露戦争開戦を控えた時期に起きた軍隊の遭難であったため、その全容が永らく国民の前に明らかにされなかったり、歩兵第五聯隊による公式記録「遭難始末」でも、都合の悪い事実が敢えて隠された可能性があり、「事実」は永遠の謎とせざるを得ないのかもしれません。
もっとも、実際に冬の八甲田に踏み込んでこれを踏破した者も、或いはそこから九死に一生を得て救出された者も、八甲田山一帯で起きていた遭難の全体像を知るわけではなく、また実際に目の当たりにした事実であっても決して口外すべきでない性格のものもあるに違いありません。
- 「謎」とは次のようなものです。
それでも青森第五聯隊雪中行軍隊が同年1月23日から一泊二日の予定で210人中199人死亡*1、弘前第三一聯隊雪中行軍隊が1月20日から九泊十日の予定で37人全員踏破*2という鮮やかすぎる対比は否応にも人々の興味を引きます。
なぜ青森五聯隊が行軍隊全滅に等しい大量遭難を招いたのかを述べれば、それだけで一冊の本が上梓できてしまいますが、端的に言えば次のように言えると思われます。
- 何故行軍隊が遭難の憂き目に遭ったか
- 準備不足と雪山への知識のなさと天候の急変(背景)
- 地元民による教導を欠いたこと
- 行軍隊指揮権の混乱
- 何故大量の遭難者を出したか
- 暁払を待たず露営地を出たこと
- 救助を待たず自力で帰営の努力を続けたこと
弘前第三一聯隊の福島大尉は、雪中行軍を成功させた立役者として賞賛されるべき功績を残しましたが、これを公に賞賛することは青森五聯隊の失策を世に喧伝することとなり、帝国陸軍ならびに政府は、行軍隊遭難を隠匿すべく箝口令を敷きました。その結果、福島大尉に対して不名誉な風評がついてまわることとなりました。
高木勉氏は福島大尉の甥で、彼の書物は福島大尉の名誉回復を目的に書かれています。そこで彼の書物では福島隊は八甲田山中の尾根を選んで踏破したために、沢で遭難した遭難者を目にしなかったという立場を取っています。この障害となるのが従軍記者として行軍に参加した東奥日報東海記者の二名の兵死者を発見し銃二丁を持って降りるという記事です。高木氏はこの記事を、若い記者の作文であると断じています。