東京都町田市で高校一年生の少女が刃物で五十ヶ所近くを刺されて死んだ事件の犯人は、彼女と小学校から幼なじみの同級生の少年でした。警察の調べに対し、少年は小学校中学校と仲が良かったのに、高校に入った途端に冷たくされたことが動機だと話しているそうです。小学生、中学生、高校生と成長するにつれ、異性への接し方も変わってくるでしょうから、幼なじみとずっと仲が良いこともあれば環境の変化とともに疎遠になってしまうことも当然のようにあり得ます。少年が彼女に抱いていたのは友情ではなく恋愛感情だったのではないかと思われるのですが、恋愛を否定されることは、自分の存在自体を否定されるような気持ちになるものだと思います。恋愛というのは相手あってのものですから、自分の思いがどれだけ強く真剣なものであり、自分に非があるわけでなくても成就するというものではありません。自分がどうして相手に受け入れられないのかということはなかなか実感として理解しづらいものですが、逆に自分が全く興味もない相手から言い寄られた場合に、どうしても相手を受け入れられないというケースを考えれば容易に理解できる筈です。自分という存在は世の中の多くの人の一人に過ぎないわけですが、自分にとっては自分だけが唯一特別な存在であり、自分の自我は自分にしか及びません。自我を誰もが持っているということは少し考えればわかりそうなものですが、自分が何か特別な存在であるかのように錯覚してしまうということはよくあることなのかもしれません。
 少年であっても大人であっても、周囲の人の中でそいつがいなくなってくれればいいのにとか、本当に死んでくれればいいのにと思うことはあるでしょう。実際に、殺してしまおうかと思うこともあるかもしれません。けれど多くの人はそう思ってもそれを実行に移すことは希です。自分という存在がどれほど特別なものであっても、感情というのは一過性のもので、環境が変わったり時間が経過すると以前抱いていた恨みなどは消えてしまうからです。にもかかわらず少年が、自分を否定した元凶である彼女を殺さなくてはならないというように思ってしまったことと、その思いに歯止めを掛けられなかったことをとても残念に思います。けれどそういう極めて希なことをしでかす人間が身近にいるということを避けられないということも、また事実なのだとも思います。私達の社会は、どれだけ規範を整えても事件を未然に防ぐことはできず、実際に何かが起こってはじめて手立てをすることしかできません。
 この事件が起こる前に、校内で少女の鞄とともに鍵が盗まれたという事件が起きました。少女の家庭は母一人娘一人の母子家庭でしたから、鍵を掛け替えることを検討していたそうです。どれだけ戸締まりを厳重にしたところで、本気で侵入しようとする賊を防ぐことは困難だと思います。けれど後から考えてみれば身に危険が迫っている予兆があったわけですから、どうにか手立てを打てなかったのかと思ってしまいます。