文部科学大臣にいじめによる予告の手紙が送付されたことを受け、手紙が投函されたとされる豊島区の小中学校では、自殺予告の日とされた今日、24時間体制で職員が待機したり校内を点検したり夜は全ての照明をつけたりしたそうです。
結果的に予告された自殺は行なわれなかったようですが、大騒ぎした割に何も起こらなかった2000年問題を思い出させる結果になりました。
ただ学校が生徒の間で起きているいじめを把握して対応していればこのようなことにはならなかったのであり、こうした豊島区の過剰な対応は学校は結局いじめに対して有効な手立てを行なってこなかったし今なお行なえていないことを意味しているように思います。
校内暴力が表面化する問題であるとすれば、表面化しづらいのがいじめです。けれども生徒はどのようないじめが行なわれているか、実は知っています。自分が主体的に関わっているいじめについては、それがいじめであるという自覚がない場合があるのですが、それでも他の学年でいじめだとはっきり判る事象を幾つか目にしてきたことがあります。ただし私はそれを先生に報告していじめをなくそうとすることができませんでした。それは報告をした自分が報告された相手から恨まれた場合に、自分を守る自信がなかったことと誰かから守られるという保障がなかったからです。またそれがいけない事だと言うことは重々判っているし、正義感も勇気もかけらもなかった訳ではないにしても、自分の中にそれを報告しなくてはならないと思えるまでの動機もなく、また報告をしたところで自分が得をすることは全くないのに、自分が危険を背負い込むかもしれないというリスクだけがついて回ります。自分がそういう立場にならないよう立ち回るのに精一杯で、それ以上のところに踏み出せないのです。
それがただの言い訳に過ぎないことは良く判ります。けれどそれは自分にとっての揺るぎない事情でもありました。というのも私は自分がいじめられたとしか言いようのない暴力を受けたこともありますし、買ったばかりの辞典が消えてしまったりしたことがあったからです。それはつらいことではありましたが、それ以上エスカレートしていかねば何とか耐えることができるものでしたし、それを自ら告発してさらに酷いいじめを受けることは何より恐ろしかったからです。
ですので私にとって見ればそれは言い訳というよりも、リスクを最小限に抑え或いは回避するための知恵でもあったと思います。