16日にアメリカ・バージニア工科大学で韓国人学生による銃乱射事件で32人の命が奪われ、18日に長崎市長が狙撃され、たまたま日本のニュースではそれ以降ともに犯人がマスコミに宛てた犯行声明とも取れる手紙やビデオから、犯行の動機を探り出そうという報道が過熱しています。
どのような動機であれその犯罪が許されることはありませんが、異常犯罪としか言いようのない犯行そのものが目的である犯罪については、その動機を追及することには虚しさしか感じることができません。
死者を貶めるつもりはありませんが、長崎市長狙撃事件については容疑者が暴力団関係者であることから、まだ世に出ていない疑惑があって、その報復を第三者が容疑者に依頼したというのであれば、こうした悲惨な犯行が行われたことに納得がいくのですが、現在語られているような中小建設会社への融資を断られた件であるとか容疑者の車の市道工事の事故対応のまずさからくる恨みが動機なのだとすれば、その結果として銃撃がなされてしまったことに虚しさしか感じられません。
アメリカの銃乱射事件にしても、自殺した犯人の過剰なまでの被害妄想や思い込みが動機だとすれば同様です。動機と犯行の間に飛躍がありすぎる異常な犯罪は、動機が動機になり得ないとしか言いようがありません。
長崎市長を銃撃した容疑者がこれまで執拗に長崎市役所に苦情を訴え、アメリカの学生寮とキャンパスで銃を乱射した犯人が2年前から異常行動を指摘され入院加療を勧められていたという話を聞いても、そうした前兆である異常行動から事件を予見することの困難さしか実感できません。
本当の動機は犯人の訴えや思い込みがどうして事件にまで飛躍してしまったのかという部分なのだと思います。ところがその飛躍の部分については誰も説明ができないのかもしれません。それは容疑者自身であっても、人に理解してもらえるように説明することができないのではないでしょうか。